最終更新日 2024年11月5日 by andiwa
「後藤浩輝さんについて知りたい」
「後藤浩輝さんのジョッキーとしての成績に興味がある」
「後藤浩輝さんをファンとして応援していた」
後藤浩輝はJRAに所属する騎手で、トップジョッキーとして活躍していました。
JRAの通算勝利数1447という輝かしい成績を残しています。
神奈川県相模原市の出身で、相模原市の中学校を卒業後に競馬学校に入学しました。
競馬の騎手は大抵の場合、競馬界に身内がいるなど何らかのつてがあることが多いです。
後藤浩輝の場合には、全く競馬とは縁のない暮らしをしていました。
なぜ競馬に興味を持ったのかというと、母親から勧められたためです。
後藤浩輝がジョッキーになった経緯
後藤の両親は手に職を付けた方が良いという教育方針だったため、会社勤めをするという考えは元々ありませんでした。
母親が息子に競馬学校を進めたのは、以前に競馬学校を特集したドキュメンタリー番組に感銘を受けたためといわれています。
高校受験や専門学校への進学も視野に入れていましたが、とりあえず受けた競馬学校の試験に見事合格して入学を果たします。
競馬学校では、あまり成績が良いとはいえませんでした。
馬に元々親しんでいる環境にいる同級生とは異なり、入学するまで全く乗馬経験がなかったからです。
何度も落馬するなど、成績は振るいませんでした。
しかし、アメリカの名ジョッキーとして知られるスティーブン・コーゼンのビデオを視聴し、感動したことで競馬への取り組み方が一変します。
真摯に競馬に取り組むようになりました。
そして1992年に競馬学校を卒業すると、騎手としてデビューを果たします。
初騎乗は1992年3月1日の中山競馬場
初騎乗は1992年3月1日の中山競馬場でした。
エンシュードラゴンに騎乗し、6着となっています。
初勝利は1992年4月4日の中山競馬場で、タイガーリリーに騎乗した時でした。
これは同期の騎手の中では遅い初勝利だったといいます。
1994年に、福島記念において重賞初勝利を果たします。
その際にはシルクグレイッシュに騎乗しました。
これはシルクグレイッシュに乗るはずだった先輩騎手が負傷したため、急遽騎乗することになったからです。
1995年にはフリーの騎手となり、21勝を挙げました。
フリーになった理由は、調教師の伊藤と確執があったためといわれています。
元々後藤は海外志向が強く、伊藤からすると浮ついて見えるようなこともあったといいます。
後藤の方でも伊藤から有力馬には乗せないと宣言されており、早くからフリーになることを考えていました。
ワールドスーパージョッキーシリーズに参戦も果たす
後藤浩輝は1996年に、アメリカに武者修行の旅に出ます。
フロリダ州のマイアミにある競馬場を拠点とし、158戦で7勝という成績を残しました。
半年間の武者修行を終えて帰国すると、翌年は46勝を挙げています。
それ以降は成績を上げ、関東リーディング・ベスト10に入ったこともあります。
1998年には63勝を挙げました。
2000年には、年間100勝を達成しています。
ワールドスーパージョッキーシリーズに参戦も果たし、マルイチャンピオンシップ南部杯において初のGⅠを制覇を成し遂げます。
この時はゴールドティアラに騎乗しました。
確執があった調教師の伊藤とも関係が改善し、後藤は伊藤のローエングリンに騎乗して2重賞を制しています。
2009年には伊藤とのコンビで、アメリカジョッキークラブカップを制する等好成績を上げました。
2012年に後藤浩輝は大怪我を負ってしまう
しかし、2012年に後藤浩輝は大怪我を負ってしまいます。
NHKマルイカップにおいてシゲルスダチに騎乗した際、他の馬の影響を受け落馬しました。
当初は頸椎骨折の疑いや頸髄不全損傷と診断され4か月後に復帰しましたが、首の不調により再度検査を受けたところ第二頸椎骨折および頭蓋骨亀裂骨折と診断されます。
しばらく休養を余儀なくされました。
競馬放送のゲスト解説者を務めたり、競馬関連媒体での活動を主に行うようになります。
その後、1年ぶりに復帰してマイルチャンピオンシップ南部杯において重賞初制覇を果たしました。
ところが2014年に再び落馬し、頚椎を骨折してしまいます。
その後も落馬やリハビリを繰り返していましたが、2015年に突然亡くなってしまいました。
後藤浩輝の死のニュースは競馬界に衝撃を与えた
自宅で首を吊っていたのを妻が発見したのです。
自殺の予兆は全くなく、当日も普段通りに家族と夕食をとったといいます。
態度にも変わったところは全くなかったようです。
後藤はタレントでアイドルだった湯原麻利絵と結婚し、一児をもうけていました。
事件性などはなく、40歳という若さで息を引き取っています。
後藤浩輝の死のニュースは、競馬界に衝撃を与えました。
中山競馬場には献花台が設けられ、メモリアルセレモニーも開催されます。
数多くの騎手から追悼コメントが寄せられました。
師匠であり調教師であった伊藤は、後藤の死を惜しみ「記録に残る騎手は沢山いるけれど後藤は記憶に残る騎手だった。」という言葉を残しています。
まとめ
自殺するなんて親不孝と言いたいけれど、それ以上に苦労していたことは分かっていると言った話もしていました。
度重なる怪我により、色々と思い悩むことがあったのかもしれません。
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